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心中的“無障礙”

時間:2019-11-29 10:21來源:網(wǎng)絡(luò)整理 瀏覽:
井內(nèi)英人:2002年出生于東京,現(xiàn)為高中一年級學(xué)生那是去年這個時候發(fā)生的事情?!拔乙刂袊?!”我哭著說道。面對這樣的我,母親露出了與其說是困


井內(nèi)英人:2002年出生于東京,現(xiàn)為高中一年級學(xué)生


那是去年這個時候發(fā)生的事情?!拔乙刂袊?!”我哭著說道。面對這樣的我,母親露出了與其說是困惑,不如說是不可思議的表情。讓我說出這句話的原因是這樣的。

2014年到2017年,整整3年的時間里,因為父親工作的緣故,我和母親、弟弟一起來到上海生活。出生于東京,國籍是日本,父母也都是日本人,并且在這之前從未和中國有過聯(lián)系的我,卻說出“要回中國”而不是“要去中國”這種將中國當(dāng)成故鄉(xiāng)看待的話語,確實讓人吃驚。但對我來說,說出“想回中國”時并沒有其他考慮,只是單純的、自然而然發(fā)出的心聲。當(dāng)時的我,正在努力適應(yīng)著回到日本后的初中生活,面臨著高中入學(xué)考試等壓力,可能在精神上確實有些不安。一年后的今天,我依然清晰的感到,我的心之故鄉(xiāng)在中國,并且會始終懷念。這種感受源于我在中國的那段生活。

父親決定來中國工作后,我們一家人本打算住在臨近日本人學(xué)校的一所公寓里,從那里步行上學(xué),但和學(xué)校商談的結(jié)果卻是弟弟能上而我不行,理由就是因為我的殘疾。由于我在日本和普通孩子一樣,上的都是一般學(xué)校,所以不論是我還是父母都理所當(dāng)然地覺得一定能夠進入日本人學(xué)校,結(jié)果卻恰恰相反。眺望著高層公寓下的學(xué)校,我對自己說道:沒辦法啊,這里是中國又不是日本。

這時,向我們伸出援手的卻是一所上海的普通中學(xué)?!斑@是義務(wù)教育,你們明天來就行”王校長這樣說道,問都沒問我有殘疾的這件事。學(xué)校的課程是漢語教學(xué)。起初,老師說什么我都聽不懂,不過在這里遇到的事情都是新鮮且刺激的,每天都讓我興奮得心里砰砰跳。最棒的是大家都對我十分友好,這和我事先預(yù)想的完全不一樣。每當(dāng)遇到麻煩時,同學(xué)們都會一下子涌過來提供各種各樣的幫助,雖然有點讓我不好意思,但真的十分感動。每當(dāng)我表示給他們添了麻煩時,大家總是爽朗的答道“沒事,沒事!”?,F(xiàn)在想來,就是每天在這樣的小事中,我獲得了勇氣與活力,度過了在上海的學(xué)校生活。我還結(jié)識了可以與彼此家人一起相處的朋友。不只是學(xué)校,在地鐵和公交車上,也經(jīng)常有人給我讓座。發(fā)現(xiàn)我沒注意到時,讓座的人還會拉拉我的衣角,讓我坐下。有時,還會有人大聲地對我提出“多吃點豆子”之類的建議,熱情地甚至讓我有些招架不住。因為在日本,我從沒有過被讓座的經(jīng)歷,更不用說還有陌生人關(guān)心我的身體甚至提出飲食方面的建議。在上海的這些小事,讓我現(xiàn)在偶爾回想起來都會情不自禁得笑出來。

中國的上海是世界上屈指可數(shù)的大都市,馬路和人行道都修整的很好,地鐵也配有直行電梯和站臺門。在我看來,上海的無障礙設(shè)施很完備。更重要的是,我之所以能免受語言和身體障礙之憂,在中國充實地生活,或許正是因為中國人心中的“無障礙”。

如今,我正在日本的高中學(xué)習(xí)漢語。今年夏天,我計劃看望友人并寄宿于北京。對于我的請求,對方二話不說就答應(yīng)了。我想,當(dāng)機立斷也正是中國人的優(yōu)點。將來,我希望做一份能夠讓人了解中國人優(yōu)良品質(zhì)的工作。


訪華感想:笹川杯日本知識大賽匯聚了來自中國各地的大學(xué)生們,賽場氣氛活躍。選手們甚至能夠答對連日本人都答不出來的問題,我不禁感嘆他們太厲害了。在位于成都的熊貓基地,當(dāng)看到有上百只熊貓生活在那里時,我為規(guī)模之大深感震驚。現(xiàn)在,生活在上野動物園的熊貓“香香”頗受日本民眾關(guān)注。得知它在五歲的時候會回到成都,我感受到了日中間通過熊貓建立起的友誼。此外,麻婆豆腐真是人間美味!對于喜歡吃辣的我來說,成都簡直就是天堂。




心のバリアフリー


井內(nèi)英人 :高校1年生


昨年のちょうど今頃の出來事である。「俺、中國に帰りたい!」泣きながら訴える僕に、母は、困るというより、不思議そうな顔をしていたのを覚えている。その理由は、こうだ。

2014年から17年にかけて、丸3年間、父の仕事の都合で、母と弟とともに上海で暮らした。出身は東京、國籍は日本、両親も日本人、それまで中國とは全く縁のなかった僕が、中國に「行きたい」ではなく、中國を我が故郷のように想い、「帰りたい」という言葉を発したことに驚いたらしい。ただ、僕としては、「帰りたい」という言葉は、何か考えがあったわけではなく、純粋に、自然に出てきた言葉だった。あの頃は、帰國直後で日本での中學(xué)校生活に慣れるのに必死で、また高校入試のことなどもあって、確かに、精神的に少し不安定だったのかもしれない。しかし、1年経った今でもはっきり言えるのは、僕の心の故郷は中國であり、この想いをいつまでも大切に抱いていきたい、そんなことを思わせてくれる中國での生活があった。

父の赴任が決まった當(dāng)時、日本人學(xué)校に隣接するマンションで暮らすことが決まり、そこから歩いて通學(xué)する予定だった。しかし、學(xué)校との面談の結(jié)果、弟は合格、僕は不合格となってしまった。理由は、僕の身體障がいのためだった。日本では皆と同じく普通學(xué)級で過ごしていたので、僕も両親も何の問題もなく編入できると思っていたが、そうではなかった。高層マンションの眼下に広がる日本人學(xué)校を眺めながら、ここは日本ではなく中國だから仕方ないと自分に言い聞かせた。

ところが、そんな僕たちが通うことになったのは、なんと上海市立の現(xiàn)地校だった。王校長先生から「義務(wù)教育だから、明日からでもいらっしゃい」と言っていただいたのだ。もちろん、障がいのことなど問われなかった。授業(yè)も全部中國語で、當(dāng)初、先生が何を言っているのかさっぱりわからなかったが、何もかもが初めての事だらけで、刺激的で、毎日ワクワクした。何より、予想に反して、皆が好意的だった。困っていると皆がわっと集まって色々助けてくれて、それが少し恥ずかしく、でも、とても有難かった。すまなそうに禮を言うと「沒事、沒事!」と明るく返事をしてくれて、今、思うと、僕の上海での學(xué)生生活は、このような日々のささやかな出來事の中で、勇気と元気をもらって支えられていたのではないかとあらためて感じる。もちろん、家族ぐるみで付き合えるような友人もできた。また、學(xué)校生活だけでなく、地下鉄やバスでも、よく席を譲ってもらった。それに気付かないでいると、服の裾を引っ張ってまでして、座れと教えてくれた。そして、時には、「もっと豆を食べなさい」とか、こちらがもう勘弁してくれと思うほど、大きな聲であれこれアドバイスをしてくれたりした。日本では席を譲られた経験などなく、まして、見知らぬ人が、僕の身體を心配して食事のアドバイスをしてくれることはまず無いわけで、上海でのこの出來事には、今でも時々思い出しては笑ってしまう。

中國の中でも、上海は、世界有數(shù)の大都市であり、道路や歩道も整備され、地下鉄にもエレベーターやホームドアが設(shè)置されていて、僕からみても、バリアフリー化は進んでいると感じた。しかし、それ以上に思うのは、言葉がわからないとか、障がいがあるとか、そういったことに煩わされることなく、僕なりに充実した生活を送ることができたのは、中國人の心の中に、真のバリアフリーがあるからではないかと思う。

僕は、現(xiàn)在、日本の高校で中國語を?qū)Wんでいる。今年の夏休みは、知人を訪ねて、北京でホームステイをする予定だ。僕がお願いしたところ、二つ返事で了解してくれた。即斷即決なのも中國人の良い所だと思う。將來は、中國人の本質(zhì)的な良さを分かってもらえるような仕事に就きたいと思っている。


訪中の感想:中國全土から集まってきた大學(xué)生達による日本知識大會は、とても盛り上がり、日本人でも答えられないクイズに正解する姿に、彼らはやはりすごいなと感じました。成都のパンダ基地には、百頭以上のパンダが生息しているとのことで、その規(guī)模にとても驚きました。今、日本で注目されている上野動物園のシャンシャンも2歳頃には成都に戻ると聞き、パンダを通じての日中の繋がりを感じました。また、麻婆豆腐は絶品でした。辛い物好きの僕にとっては成都は最高の都市でした。


(本文原文為日文,翻譯:陳蘊青)

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